日本人がコンピュータを作った!

               公開日:2010/08/01

計算機屋かく戦えり

『月刊アスキー』に掲載されたインタビュー記事を整理して、日本のコンピュータ黎明期に活躍した先駆者たちについて書かれた『計算機屋かく戦えり』という本が出版されてました。

その本を再編集して10人のインタビューを掲載した『日本人がコンピュータを作った!』が発行されました。

日本人がコンピュータを作った!

2010年、計算機屋さんの私は、コンピュータの黎明期について興味があったのでこの本を読みました。

  • 『日本人がコンピュータを作った!』
  • 遠藤諭 著
  • アスキー新書
  • 2010年6月10日 初版

 

日本人がコンピュータを作った!

日本人がコンピュータを作った!

 

日本のコンピュータは、戦後わずか20年ほどのあいだに奇跡的な成功をおさめた。国産コンピュータがなかったら、70年代の高度成長はあったか?国産マイコンチップが作られなかったら、80年代に家電・産業機器で世界を席巻したか?どだいが変わるいまこそ、コンピュータの先駆者たち=「計算機屋」にイノベーション力を学ぶ。

 

目次

 

TK-80 マイコン技術を日本中に広めた立役者 渡邊和也
FUJIC 日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男 岡崎文次
パラメトロン 日本独自のコンピュータ素子の生みの親 後藤英一
MUSASINO1号 コンピュータに日本の未来を託した熱血漢 喜安善市
ETL MarkⅢ トランジスタと電子技術の重要性を説き続けた先駆者 和田弘
TAC 黎明期最大規模のコンピュータ開発プロジェクト 村田健郎
FACOM100 国産コンピュータを世界にアピールした池田敏雄 山本卓眞
産業政策 電子立国日本の立役者となった若き通算官僚 平松守彦
LSIと液晶 ロケット・ササキと呼ばれた男 佐々木正
マイクロプロセッサ 世界初のマイクロプロセッサ「4004」を作った男 嶋正利

 

マイコン技術を日本中に広めた立役者

1976年、NECからワンボードマイコンのトレーニングキットTK-80が発売されました。私が大学生の頃でした。

ベンチャー企業V社でインテル8080を使用した開発を経験したことから、マイクロプロセッサに興味を持ち、自分が自由に使えるコンピュータが欲しくて、とても高価でしたがTK-80を購入しました。そして、8080プログラミングのソフト技術やマイクロプロセッサのハード技術など、いろいろ勉強しました。

本書のインタビュー記事は、私がリアルタイムで経験したことだったので、大変興味深く読みました。

分析してみると8080には技術的な問題があることがわかりました。そこで、NECでは『8080と同じものではなくそれを改良した製品で先回りしようじゃないか』ということで「μPD753」というチップを作りました。ところが、これがまったく売れないのです。
・・・
ソード電算機社長にお会いしたときに『8080は使いますがμPD753を使うつもりはありません』といわれた。
・・・
『うちはセカンドソースで入手できるものでないと困る。もし、NECさんから供給を断たれたら、我々は、どうすればいいんですか?』とおっしゃいましてね。

もうひとつの理由として8080は技術資料が充実している。これはインテルから公開されているので、アメリカの技術者とも8080なら話が通じる。ところが、μPD753といっても誰も知らないからダメだというのです。

要は、『デファクトスタンダード(事実上の標準規格)』ということが非常に大事だというのですね。

 

インテル8080とNEC μPD8080A(μPD753の後継)は、命令の動作が完全互換ではなかったという話をその当時に聞いたことを思い出しました。

インテル製8080Aの10進数演算に使用するBCD補正DAA命令の動作に問題がありました。NECはμPD8080Aで正しく動作するように改良しましたが、μPD8080AFでインテル8080Aと完全互換としました。

インテル8080A互換性について

MPU ピン互換 命令互換
μPD753 × ×
μPD8080A ×
μPD8080AF

この当時の私は、命令の互換性が無いためにソフトウェアの互換性に問題があるからだと理解していました。
『チップの供給問題』が重要な問題になっていたことをこの本で知りました。

 

日本独自のコンピュータ素子の生みの親

パラメトロン素子を使用したコンピュータについて書かれてます。

世代 素子
第1世代 真空管
第2世代 トランジスタ
第3世代 IC
第4世代 LSI

パラメトロンは、第1世代と第2世代の間の1950年代半ばに発明されました。

パラメトロンを使ったコンピュータは、1957年に電気通信研究所の「MUSASINO1号」が完成。素子を考案した東大高橋研究所が1958年「PC-1」、1961年「PC-2」を開発。日立製作所、富士通、日本電気などのコンピュータメーカーもこぞってこれを採用し、次々にマシンが出荷された。安定性が武器のパラメトロンならではの開発サイクルの短い展開であったが、そのとき確かにパラメトロンコンピュータの時代が日本には存在していたのだ。

 

私はパラメトロン素子について、その昔に聞いたことがありました。この本には記載がありませんでしたが、日立製作所のコンピュータはHITACという名称を使用していますが、パラメトロンを使用したコンピュータをHIPACと呼んでいました。

  • HITAC(HItachi Transistor Automatic Computer) トランジスタ
  • HIPAC(HItachi Parametron Automatic Computer) パラメトロン

 

パラメトロンコンピュータが出荷されたのは2年間とごく短い期間で、やがてトランジスタの出現とともに第2世代、さらにはICによる第3世代による大きな波に飲み込まれてしまう。パラメトロンの普及が日本だけにとどまり、また、コンピュータ関係の開発者にか認知されなかったのはそのためだ。

 

日本独自の技術で第1.5世代とも呼べるコンピュータが存在していたというのは驚きです。

 

世界初のマイクロプロセッサ「4004」を作った男

インテル4004を開発した嶋正利さんについて書かれてます。

嶋正利。1971年にインテル社から発表されたマイクロプロセッサ「4004」を弱冠28歳で発明した人物である。

 

嶋さんは、1967年に電卓を開発しているビジコン社に入社。三菱電機に出向して科学分野のプログラマになるつもりで、COBOL/FORTRAN/マクロアセンブラなどのプログラムを学びました。

ここでの経験が、後のマイクロプロセッサ開発に活きたようです。

仕事で作るプログラムは経理関係の簡単なものばかりで仕事がつまらない。
・・・
電卓開発部署に配転を希望した。

 

確かに、事務処理プログラムより制御系のプログラムの方が面白いと私も思います。

ところが、地元の静岡に戻るためビジコン社を辞めました。
復帰要請の電話により1968年に再びビジコン社に入社。ビジネス用の電卓開発に着手したそうです。

電卓はそれまでハードワイヤード(配線論理)のランダム論理でできていたんですが、これをROMからプログラムを読み出して動くコンピュータ的なものにしてみたいということだったんです。つまり、ハードウェアで構築していた論理回路をソフトウェア的なもので置き換えてみたいというわけです。
それで私が電卓に必要な命令セットを考え、プログラムを組むことになりました。

 

この時代に電卓の仕組みが一歩前進したように思います。
そして、LSIの時代が到来してさらなる進化をするわけです。

ビジコンではインテルにLSIシステムを作ってもらおうということになりました。
・・・
電卓のLSIシステムの構成を1967年6月にインテルに持って行くことになった。これまでのような個別用途向けの電卓ではなく、汎用の電卓を作ろうというわけです。

 

嶋さんは、アイデアと論理図を持ってインテル社に行き、LSI電卓を説明しても理解してもらえず興味も示してもらえず、平行線が続きました。

そんな8月下旬のある日、テッド・ホフが興奮して部屋に入ってきました。そして、My idea is…
いい方法を思いついたっていうのです。4ビットの主演算ユニット、4ビットの汎用レジスタが16本、それに嶋の話だとサブルーチンが最大3段必要だからプログラムカウンタを1段加えて4段のスタックレジスタを作るといいながら絵をかいて、これでどうだっていうのです。つまり、私のN桁というマクロ命令を簡単化して、1桁でやったらどうかというんです。
・・・・
4ビットのCPUで、N回計算させてN桁の計算をすればいい。
細かい、マイクロな命令をプログラムで組合わせて、私のいうマクロ命令が実現できるんだというんです。

 

このアイデアが、マイクロプロセッサ4004の誕生につながるわけです。

実は私は、コンピュータでマシン語をやった経験があったから、ホフの4ビットのマイクロな命令を使うという着想自体は大して新しく感じませんでした。しかし、次世代の電卓にとっては魅力ある提案だと思いましたね。

 

入出力装置のリアルタイムコントロールについては嶋さんが考えたそうです。

アメリカでLSIシステムを開発することになってしまい、仕様の作成と論理設計は嶋氏が1人でやることになった。嶋氏は窮地に立たされながらも、考えつく限りのアイデアを絞り出し、チップに反映させようとした。

 

マイクロプロセッサ4004の誕生には、数々の苦難があったのですね。


この章の最後に、とても良いことが書いてありました。

プログラミングの経験と、ハード、10進の電卓を作った経験があったからできたんですよ。
アイデアは何もないところからいきなり生まれませんよ。初期のアイデアが行き詰まり、その解決方法を探っていくところに生まれるものなんですね。

 

アイデアを生む苦しみは、私にもよくわかります。私の経験でも、解決困難な課題が発生しましたが「乗り越えられない壁は無い」との技術者魂でアイデアを生み出して突破したことが何回もあります。
嶋さんの言われていることと同じで、これまでに積み上げた経験に加えて、アイデアを何度も考え直して解決方法を検討するわけです。そして、ちょっとしたリラックスが素晴らしいアイデアに導いてくれました。

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加