金沢拠点での業務立ち上げに向けて

松下通信工業に駐在

私は、研修のために1989年12月に松下通信工業の情報システム事業部ソフトウェア工場に駐在しました。この研修期間は、松下通信工業の先輩社員から多くのことを学ぶ充電期間と考えていましたが、現実的には即戦力としてソフトウェア開発を担当して、忙しい日々でやや放電してしまいました。

駐在して最初に、開発中の証券ボード開発に参画してソフトウェア設計書の作成などから、業務に入っていきました。

お客さまの立ち会いテストフェーズに入った時期には、朝から夕方までお客さまとシステムテストを行い、問題のあった点について明日までに対応しておいてくださいと言ってお客さまが帰られるのです。夜から、問題点を解析して解決策を考え、朝までに対策と確認を完了するというとても厳しい開発でした。
メーカーのソフトウェア開発は、商品開発なのでとても厳しいという現実を知りました。

ファームバンキング端末の開発

1990年夏、新しいファームバンキング端末の開発業務を任されました。
ファームバンキングとは、中小企業に設置した専用端末を使用して通信回線により金融機関と接続し、振り込みや残高照会などが行えるサービスです。

ファームバンキング端末は、8086系のMPUを搭載し、タッチパネル付きのディスプレィ、テンキー、プリンタ、フロッピーディスクと電話回線用のモデムが付いている小さな端末でした。

当時、松下通信工業は、FB-Ⅰ/FB-Ⅱというベストセラー機を銀行に納入していました。その後継機種の開発計画がありました。

  • 大容量・高速化 FB-Ⅲ端末
  • 小型・低価格化 FBジュニア端末

私は、FBジュニア端末の開発担当となりました。FBジュニア端末は、画面サイズを1/4(320×240画素)、メモリ容量を1/2の256KBで実現することを目標仕様として、コスト削減を図ることになりました。

開発の最初は、従来機のFB-Ⅱを操作しながら現状調査と解析を行いました。FB-Ⅱプログラムは、512KBのメモリ空間が使えるのでMS-CのLargeモデルで記述し、すべてのプログラムをリンクして1本の実行形式になっていました。

FBジュニア端末では、画面の小型化に対応する対策として、ポップアップ・ウインドゥ採用とタッチパネルに表示するキーボードを見やすくするために影を付けて立体的に表示しました。

メモリ容量の縮小化の対策は、とても悩みました。休日にメモ帳を持って富士五湖に行って、富士山を見ながらメモ帳にいろいろとアイデアを書いて検討しました。
検討の結果、システムの共通機能をまとめたシステム部とアプリケーション部を分離して、アプリケーション部はコードセグメントとデータセグメントを合わせて64Kバイト以内とするTinyモデル(拡張子.COM)を採用し、アプリケーションを動的リンクしてオーバレイ構成とすることにより256KBでの動作を可能にする方式を考え、実現しました。

機能仕様書を作成し、FBジュニア端末のアーキテクチャ仕様を決め、システムプログラムをBIOS/API/DOS/システムコール部に分離してそれぞれの設計書を作成しました。

ファームバンキング端末のアプリケーション仕様は、CSK時代のオフコン業務アプリケーション開発で培ったノウハウが役に立ちました。

松下通信工業の技術者数名と外注(松下では共栄会社と呼びます)の協力を得て、約1年後にFBジュニア端末の1号機が完成しました。毎日、大変忙しい日々を過ごしましたが、自分の希望していた開発ができてとても充実した日々を過ごしました。出荷の数日前には原因不明の不具合が発生して、共栄会社の技術者と一緒に徹夜して解析することもありました。

関東地区で、FBジュニア端末のテレビ・コマーシャルが放送されたのを見ました。

歌手の中山美穂さんが「銀行へ行ってきます」と社長に言って、ファームバンキング端末の前で操作します。そして、「ただいま戻りました」という短いストーリーでした。自分の開発したものが商品となり世の中に出て、テレビ・コマーシャルで流れているというのは、技術者としてとてもうれしいことです。

松下通信工業のファームバンキング端末の累計出荷数が10万台を達成したときに、記念のテレホンカードが開発関係者に配布されました。
私の担当したFBジュニア端末は、左側の小さい端末です。

 

ファームバンキング端末

ファームバンキング端末

金沢拠点での業務推進

FBジュニア端末の出荷を開始した1991夏に金沢拠点に帰任しました。金沢では、ファームバンキング端末の各種銀行向けのカスタマイズ開発や、後継機種の開発などを受注することにより、ソフトウェア開発を軌道に乗せることができました。

時期を前後して、電波事業部に駐在していた社員も帰任して、電子回路設計開発も軌道に乗りました。

しかし、この当時の金沢に帰任した技術者は5名でした。毎朝、朝会を行い担当者が経営理念の巻物を読み上げて、所感を述べるわけです。毎週のように担当が回ってきますので、毎回所感ネタを考えるのが大変な時期もありました。

私たちの遵奉すべき精神
一、産業報国の精神
一、公明正大の精神
一、和親一致の精神
一、力闘向上の精神
一、礼節謙譲の精神
一、順応同化の精神
一、感謝報恩の精神

1990年からは大卒の定期採用も行われ、経験者の中途採用も継続して行われたので社員数は順調に伸び、金沢への帰任者も増えてきました。


「出会いは無限の可能性のとびらを開く」 という言葉を聞いたことがあります。
松下通信金沢研究所に転職して良かったと思います。いろんな人と出会い、いろんなことを学び、いろんなことに挑戦することができました。